sirius80のまったりブログ(^o^)

アッくんの Secondary な日々!

あれから34年・・・

※ ボーイング747SR-46

*SRとは Short Range (ショートレンジ)

従来長距離輸送機として開発されたB747を

短距離路線用に主脚を強化し、最大離陸重量を減らし、上昇性能を高め、騒音対策も配慮


※ 1985年(昭和60年)8月12日午後6時56分2

8秒、東京・羽田空港発、大阪・伊丹空港行の同社定期便だった日本航空123便(ボーイング747SR-46、機体記号:JA8119が、ボーイング社の不適切な修理が原因とされる後部圧力隔壁が飛行中に破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムも全喪失した。結果、完全に操縦不能に陥り、迷走飛行の末、最終的に群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称:御巣鷹の尾根)へ墜落した。

この事故では乗客乗員524名のうち、520名が死亡し、日本航空の歴史上最悪の事故、そして単独機で世界史上最悪の死者数を出す航空事故となってしまった。



1985年8月12日、乗員乗客あわせて524名を乗せた羽田空港18:00発伊丹空港行き(18:56着予定)の日本航空123便(B747SR・JA8119)が羽田空港を12分遅れ(ほぼ定刻通り)で離陸


機は順調に飛行し、房総半島上空辺り。


しかし離陸して約12分後、(相模湾上空辺り)で、航空機内の気圧を維持する後部圧力隔壁が破損。機内では、2回の爆発音と同時に酸素マスクが降りてきた。





この際の衝撃で垂直尾翼を失うと同時に、油圧管が全て破損した事で油圧を喪失。油圧3系統すなわち操縦桿を用いた機体の制御が完全に不可能な状態へ陥った。この事態にパイロットは緊急事態を宣言(スコーク77: トランスポンダの状態番号を「非常事態」を示す7700に設定)すると同時に、即座に羽田へ戻る事を管制塔へ要請。また通信を聴いた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。パイロットは左右のエンジンの推量調整などの限られた手法を用いて必死に機体を制御して羽田へ向かおうとしたが、尾翼を失ったことによって安定性が失われ、ダッチロールとフゴイド運動が激しくなりつつあった機体は徐々にコントロールを失い、群馬県の山岳地帯へ向かい始める。



当日のJAL123便はお盆の帰省シーズンであること、当時開催中のつくば万博からの帰り客がいたことなどから、ほぼ満員となっており、乗員乗客524名が搭乗していたが墜落によりその内の520名が犠牲となった。


犠牲者には歌手の坂本九、元宝塚歌劇団の北原瑤子、阪神タイガース社長中埜肇、ハウス食品社長の浦上郁夫、コピーライターの藤島克彦ら数名の著名人や、甲子園球場で行われていた夏の高校野球を見に1人で搭乗していた小学生なども含まれている。


事故の前日には東京でコミックマーケットが開催されており、コミケ帰りに事故に遭った参加者や、当時絶大な人気を誇った同人作家緋本こりんもこの事故で亡くなっている。


※ 運航乗務員

機長:高濱雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官・海上自衛隊第1期航空学生)


副操縦士:佐々木祐(ささき ゆたか、39歳・機長昇格訓練生)


航空機関士:福田博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官)


通常、機長はコックピットの左側の席に、副操縦士が右席に着席するが、当日のJAL123便では機長昇格訓練実施の為、通常とは逆に訓練生の佐々木副操縦士が左席に、訓練教官の高濱機長が右席に着席していた。



※ 事故発生から墜落までのタイムライン


18:12 羽田空港を離陸


18:24:35 爆発音と共に圧力隔壁破損。垂直尾翼と油圧を喪失する。(相模湾上空)


18:24:47 緊急信号を発信。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市 以下、東京ACC)がこれを受信。


18:27 東京ACCより緊急事態宣言をするかの最終確認。123便、緊急事態を宣言する。


18:29 123便より操縦不能の無線連絡。この時、初めて地上は123便が操縦不能と知る。


18:31 東京ACCより小牧市・名古屋空港への着陸を提案されるが123便は小牧が市街地にある事と滑走路の長さを勘案し、羽田へ引き返す事を要請。

東京ACC側もこの要請を承認すると共に、通常は英語で行われる交信に日本語を使用する事を許可。


18:45 交信を聞いた米軍横田基地より、123便へ支援の申し出があるが123便はこれを断る。


※ 墜落の7分前 東京都 奥多摩町で撮影された

123便。この写真から垂直尾翼の大半が無いことが判る。


18:53 ACCより123便を呼び出すも、「アンコントロール(操縦不能)」とのみ返答。

東京アプローチ(以下、東京APR)へ無線の変更を指示し、123便もこれを了承。

また米軍横田基地は123便の緊急着陸受入準備を完了させる。


18:54 123便より「リクエストポジション(現在地を知りたい)」との要請あり。

東京ACCが「羽田から55マイル北西、熊谷より25マイル西」と返答。


18:55 東京APRより「羽田と横田に貴機は最優先で着陸可能である」との無線連絡。

機関士が「はい了解しました」と返答。これが123便から発せられた最後の言葉となった。

18:56:14 GPWS(対地接近警報装置)作動。


18:56:21 機長らしき声で「もーだめだ!」と聞き取れる音声。これがCVRに残された最後の言葉である。

(事故報告書には内容判別不能として記載されず)

18:56:23 CVRに最初の衝撃音。右主翼と機体後部が地面をかすった、あるいは樹木に

接触したものと推測されている。


18:56:26 二度目の衝撃音。右主翼が地面を抉るように接触し完全にコントロールを失う。


18:56:28 機体後部が分離し、先に墜落。CVRにはここまでの音声が記録されている。


18:56:30 123便墜落。



※ 事故調査委員会の報告書によると…

1978年(昭和53年)6月2日、羽田発伊丹行き115便として同機が伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生した(日本航空115便しりもち事故)。この事故によって生じた損傷の修理を製造元のボーイング社が行った際、後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが本事故の主な原因と結論づけられている。





※ 本来 継ぎ板は1枚ものでなくてはならないが、何故か この修理の場合2枚に分かれている。継ぎ板と継ぎ板の間に隙間が出来、しっかり強度がとれていない。


1985年2月から本事故までの間、本機では客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている。


今日で、34年の月日が経ちますが風化しては

いけない。最近ではパイロットの飲酒運航などが目立ちますが、34年経てば技術も進歩し

殆どが自動化されていますが、C/Pを監理するのはあくまでも "人" です。同じ過ちを繰り返さないよう願うばかりです。520名の犠牲者の方々のご冥福をお祈り致します。